歴史・年表

■歴史・年表

<創立から1945年まで>

大正7年(1918)5月25日本会は創立された。鶯渓会という名称は、工事母校が日本女子技芸学校と称して谷中初音町にあり、その地の鶯の初音に由来する。またこの時の会の目的は、卒業生の親睦をはかり母校の記念事業に寄与する、とある。

本会の活動は、大正10年1(1921)頃よりようやく活発化し、大正13年(1924)に高橋真喜氏(12回生)が母校の職員となって本会を育成された。

昭和3年(1928)に至り、本会創立10周年を迎え、天皇即位の大礼記念として初めて懇親会を催し、ピアノを母校に寄贈した。

その後昭和7年(1932)から10年(1935)にかけて対照的な福祉事業に協力し、昭和(1938)には、会員名簿を初めて発行し、またこの年の本会創立20周年前後には毎年観劇会を催し親睦を深める一方、母校への教育活動も欠かさなかった。

昭和18年(1943)に至るや、第2次世界大戦の激化伴い役員等の分散疎開が激しく、本会の活動も一時中断せざるを得なくなった。

<激戦後から1970年まで>

昭和21年(1946)になって、敗戦にもめげず水野若氏(16回生)らが中心となり、いち早く本会の活動は復活した。そして昭和23年(1948)に本会創立30周年を迎え、それを記念して都民文化館で盛大に音楽会を開催するに至った。

その後本山花子氏(17回生)が中心となって本会をまとめ、昭和26年(1951)には母校創立40周年記念の音楽会を催し、その利益を母校に寄附、昭和27年(1952)には会員名簿を戦後初めて発行しこの年より昭和36年(1961)までほぼ一貫して観劇会を開催してきた。

また、この間には、昭和29年(1953)に米軍軽井沢演習地設置の反対運動、昭和31年(1956)に山本勘助元学校長の墓石建立、昭和33年(1958)本会創立40周年には会員名簿発行を行った。

昭和37年(1962)に矢谷芳雄氏が学校長に着任するや、学校長が本会の会長を兼務するという会則が改められ、ここに同窓会の会長・山本花子氏(17回生)が誕生した。実に大正7年創立以来44年間卒業生不在の組織であったわけである。

昭和43年(1968)に本会創立50周年を迎え、母校体育館の壁面鏡を寄贈。昭和44年(1969)撫は引続き観劇会や懇親会を主体とした親睦をはかってきた。

<1970年〜会史発行、会室開設>

昭和45年(1970)に軽井沢の山の家改築に援助をしたものの、会の活動はここ数年間活発さを欠いていた。昭和46年(1971)母校が創立60周年を迎える時期となり、ようやく同窓会活動復活の気運が盛り上がり、この年母校の創立60周年を盛大に祝うとともに、会報『鶯渓会だより』を創刊、また、新会則が制定され、本会の再建が着々と進行した。

昭和47年(1972)には本山花子会長が勇退氏、新たな会則のもとに会長・島 正之氏(46回生)、副会長・瀬田静枝氏(20回生)にバトンタッチされ、総務部・企画部・広報部・文化部・経理部の5部より成る新しい執行体制が成立した。

この年には母校教育援助として鶯渓会文庫を設立し、会員名簿が発行された。一方母校には三室岩吉学校長が着任し、本会を積極的に支援してくれた。

昭和48年(1973)には懇談会の開催、通信費の設定等あり、また母校の一隅に仮説事務局が設置された。昭和49年(1974)、対外的には母校の体育施設等促進運動を行い、一方この年に母校援助基金が成立し、本会の未来のあるべき姿を追求するべく未来像の検討が開始された。

そして、昭和51年(1976)に至り、母校創立65周年を祝う懇談会を催し、その記念事業として母校のに絵画修復その他を寄贈、また、本会創立以来初めて鶯渓会史『鶯渓』の編集が完成した。

昭和52年(1977)には会員名簿が5年ぶりに発行となった。また、昭和53年(1978)に本会は創立60周年を迎え、それを記念として会章が決まり、また記念祝賀会を開催、文化祭(蓬莱祭)の特別参加、母校並びに功労者への記念品の贈呈などの記念事業を行った。

そして昭和54年 (1979)から、懸念事業である会室設置実現への運動が開始され、昭和56年(19811)8月、遂に中央区東日本橋に鶯渓会会室が設置された。

<文化活動の充実>

文化面でも活発に動き、昭和55年(1980)10月は 『鶯渓会文化の集い』と称した、第1回目の音楽会を開き、昭和58年(1983)2月に第2回目を開催した。

昭和56年(1981)8月に母校創立70周年を記念した観劇会を開き、昭和57年(1982)9月には会報「鶯渓会だより」20号発行を機に会報総集版を完成させた。

昭和58年(1983)8月には観劇会を催し、10月には「さよなら講堂」と銘打ち鶯渓会創立65周年祝賀会を母校で開催した。

昭和59年(1984)7月に「能と隅田川」とうたって第1回隅田川ゼミナールを催し、昭和60年(1985)4月に第2回、昭和61年(1986)7月に第3回、昭和62年(1987)7月に第4回と毎年「隅田川ゼミナール」を開催している。

昭和60年(1985)11月には、荒川サンパールに於いて「第3回文化の集い」を開催し、翌61年(1986)5月には、「母校創立75周年記念祝賀会」と銘打って母校内外の関係者を招待して盛大に催し、同年8月軽井沢山荘に於いて「軽井沢セミナー」を開催した。

会報「鶯渓会だより」発行も昭和62年(1987)10月、30号までに進んだ。毎年、母校に教育活動費等を寄附を継続してきたが、 本会創立70周年記念事業として昭和63年(1988)4月に10余年ぶりに会員名簿を作成した。同年11月には鶯渓会創立70周年記念祝賀会を開催。その席上、日本ユニセフ協会より、継続して募金活動を行なってきた鶯渓会に対し感謝状が贈呈された。

平成2年(1990)11月、「第4回文化の集い」としての音楽会開催。

平成3年(1991)4月には母校創立80周年記念文集「浅草・上野・隅田川」を発行。

平成4年(1992)4月会報21号〜40号をまとめた会報総集版を発行。

平成6年(1994)5月、第76回定例総会に於いて、22年間にわたり会長として務めた 島 正之氏にかわり、岩井千佳子氏(26回生)が会長に選出された。

平成7年(1995)11月、「第5回文化の集い」としての音楽会を開催。第1回から毎回、その中心となっている声楽家、佐藤光政氏(49期生)の功績は大なるところである。

平成8年(1996)9月、母校の文化祭である蓬莱祭に、久しぶりに同窓生の作品を展示する形で参加した。

<1997年、母校の統合計画が発表>            平成9年(1997)9月、東京都が都立高校改革推進計画を決定し、忍岡高等学校と、上野忍岡高等学校を統合し全日制単位制高校にするという報道を受け、鶯渓会としては東京都に対して名実ともに忍岡高等学校を残すという陳情を多くの会員の署名と共に行なって行くことになった。

平成10年(1998)6月、第80回定例総会に於いて岩井千佳子会長が勇退氏、稲見悦彦氏(43回生)は会長に選出された。同年11月、鶯渓会創立80周年を迎え、10年ぶりに会員名簿を発行した。

平成11年(1999)発行 鶯渓会会員名簿のより転載(見出しは新たに加えました。)